雑感~21030826

敗戦                                                              20130826

 

 昨日の日曜日、昼食時にテレビをつけたらCGでゼロ戦が飛んでいた。

 いつ製作された番組かわからなかったけれど、ゼロ戦にスポットを当てて太平洋戦争を振り返ったものの再放送らしい。

 先週ゼロ戦を見てきたこともあって、予定を変えて前篇途中から後篇最後までを見た。

 

 後篇では、特攻に散ったふたりの青年飛行兵を中心に話が進む。たくさんの理不尽を、しかしそれを勇気で受け入れて前を向く若者に圧倒されながら、一番ショックだったのは敗戦後の人々の振る舞いだ。

 特攻隊初陣のニュースが配信されると、完遂した隊員は神と称えられ、遺骨の帰還には1000人の人が手を合わせた。市長が葬儀に訪れ、家の前に記念碑を建てる。

 それが、敗戦後日も経たないうちに引き抜かれるのだ。「敵さんを多く殺したと自慢するようなものは迷惑だ」と白眼視をもって。

 

 知ってはいたけれど、あらためて見せられるとショックを受ける。その場に自分が居たらどうしていたか・・・はまったくわからないままに。

 

 戦争を推し進めたのは戦前のエリートだから、そうした存在を妬み、被害意識や実際に被害のあった人々が敗戦を契機にどんでん返しを図った構図は理解できる。しかしそれは内輪の論争であって、どのように説明しても、日本は敗戦国という事実からは逃れられない。終戦を敗戦と言い直す日が来なければならないと思うのだ。

 

 僕は、市民の建てる戦争博物館があったらと思う。そこには結論や総括はなく、好もしいものも不快なものも選択せず、確認された事実だけが記録されるのだ。

 容易ではないだろうけれど、新大久保の、ヘイトスピーチに反対するデモにその萌芽を感じる。

エンジン                               20130819

 

 新作映画「風立ちぬ」の話題から、河口湖飛行館というところにゼロ戦が展示されていることを知った。(個人経営で毎年8月のみ開館)

 かねてから遊就館(靖国神社に併設)以外でゼロ戦を見たかったし、河口湖はドライブに丁度良い距離だと思ったので出かけてみた。

 

 展示はプロの仕事というより所有者のアイデアのようだ。恐らく見せることより集めて修理することにほとんどのエネルギーを使っているのだろう。だからここは、全体像ではなくディテールを見るための施設なのだ。

 飛行機の展示は町工場のような建物で、ゼロ戦と陸上攻撃機の上に、ライト兄弟の復元機が吊るされていた。グライダーや人力飛行機もあるので、飛行機という以外、テーマらしきものは見えてこない。

ライト兄弟の復元機(飛行館HPから)
ライト兄弟の復元機(飛行館HPから)

 しかし、あまり目立たないところに天声人語の書き写しが貼り出されていて、それは、「戦争を記憶し追体験する国立博物館が、なぜ日本には無いのか・・・」という問い掛けだった。

 

 洗練には遠い展示なのに楽しめたのは、「戦闘機を間近に見る」という小さな追体験があったからだ。そして、飛行機の数よりも多く並べられたむき出しのエンジンに、訴えかけてくるものがあった。

 大きくて重そうで、何千点ものパーツが組み上げられたアートのような鉄の塊は、心臓を連想させるからか、生き物のような気配を放っている。

 

 70余年前、このようなものを手探りで作り上げた人々の情熱と暮らし。

 

 エンジンを前にして、その製造の時代に身を置いたつもりになってみる。見えない戦況の中、優れた戦闘機を1日でも早く完成させたい衝動に駆られていただろう。そして届く召集令状。どんなに不安が大きくても、自分の足で戦争に行っただろうと容易に想像できた。

 戦争に関与せざるを得なかったことを、生まれた時代の不運や不幸として整理してしまうと、大切な物がこぼれて落ちていくのだと思う。戦没者に対するには、追悼ではなくて共感こそが求められるのではないか。

流れ星                                                             20130814

 

 昨晩、夜更けのニュースにペルセウス座流星群の映像が出てきた。月曜日は瞬間的豪雨などもあって諦めていたけれど、この日は月が早くに隠れることもあって観察条件が良いと言う。 

 屋上に上がってみると雲にところどころ隙間がある程度で、星は一つしか見えなかった。それでも、思いがけなく涼しい夜に、椅子に座ってしばらく待ってみることにする。

 

 やがて雲が薄くなって星が4~5個見えるようになったころ、天頂近くでひとつの星が鮮やかなオレンジの光を曳いて流れた。

 期待が高まって、より広く夜空が見えるように体勢を変えて待ったけれど、その後は旅客機の小さな位置灯が無音で描く航路を見るばかりだった。

 

 そういえば、さきほどの光の強さは以前見た流星群やニュースの映像とは違っていた。群でない単体流星だったのか。

 もしそうだとしたら、とても良いタイミングだったと思う。僕の他にも、待っている人がたくさん居たと思うから。

冬瓜                                                                20130813

 

 昨日、目的地がないまま車を運転していて福生を通り抜けた後、周りが田畑ばかりになったと思っていたら「秋川ファーマーズセンター」という建物が目に入ってきた。

 道の駅ほどの大きさで、車を停めて中に入ると生産者の名前を記した野菜が大量に売られていた。

 セロファンで包装されているのが残念だけれど、効率を考えれば他に良い方法は見当たらないのだろう。それでも中身の野菜には土の匂いがあって、値段もとても安いように思われた。(特別名前のない茄子としては大きなものが5つで100円、60㎝超の長ネギが5本で250円、山芋は50㎝近い大きな物が320円だった)それに、泥付きの人参は可愛いイラストのような形をしている。

 

 車に空調があると言っても、ガラス越しの日射とボディーからの輻射は相当に厳しかったから(車外温度計は42度を示していた)、僕の小さな夏休みドライブはそこで終わりにして、美味しい野菜を使った夕食を作ることにした。主婦の作る一食が、僕には半日の遊びなのだ。

 

 冬瓜の鶏そぼろ煮を冷やしたもの・焼き茄子・山かけ・人参スティック。

前夜の豚肉赤ワイン梅煮込み(照り焼き?)の対極メニューとなって、夜遅く帰宅した長男が冬瓜を食べて「これは美味しい」と言った。僕が若い時だったらおそらく無かった感想で、目玉焼き嫌いなどとあわせて意外な思いをする。(家族では僕の好物が一番単純だ)

 

 冬瓜の皮を剝くのは始め大変だったけれど、終わり頃にはコツを掴んだ。次はもっと簡単に美味しくできるだろう。

 

 

追記 (目的地)

 

 夏休みのせいか空いている電車で座っていたら、家族連れが乗ってきた。隣に座った少年に「次の駅だからね」、と母親が声をかけると、少年は「そこが行くところ?」と尋ね返す。

 小さい頃を思い出した。親に言われるままに電車に乗っているので、目的地やそこまでのルートも時間も、何も知らずにいるのだ。(反対に、僕たちはすべてを消化・処理している気がしてならない)

 

 子供が何か見付けた時の顔が好きだ。探さずに出くわした感動が笑顔に花開く。

 

 昨日は暑さに断念したけれど、地図を見ずに3時間車を走らせた知らない町で食堂に入る・・・という遊びを夏の間にしてみたい。

 

アドレナリン                                                      20130809

 

 那須に出かけたことで、ある事件を思い出した。しばらく前、北関東の温泉に妻と出かけた時のことだ。

 

 宿泊費を押さえた割にはホテルの夕食が美味しくて、ラッキーだったねとよろこんだ。施設は古いけれど清潔は保たれていて、部屋には渓谷に面した全面の窓がある。

 夜になると、真下にある露天風呂のために対岸岩肌がライトアップされて、岩の間を流れ落ちる水音が絶え間なく部屋を満たしていた。

 

 そこまでは良かったけれど、布団と枕は今時の宿には珍しいくらい古めかしいものだった。薄いくせに重い。圧迫感があるし背中が痛いから睡眠は浅くなりがちで、時々目を覚まして直前の夢をなぞったりしていた。

 そんな状態で楽しい夢になることはなく、家に濁流が押し寄せて途方に暮れたり、突然、蔵を奪い合う合戦に強制参戦させられたりしていた。竹槍だけ持たされて。

 

 そんな風に夢と現を行き来している時、窓際のソファコーナーにある冷蔵庫が閉まる音を聞いた。

 それまでに聞いた音とは違った気配を感じて、静かに振り向く。そして、寝ている妻の向こう、和テーブルに肘をついて座る人影を見た。

 

全身の毛穴が開く。

心臓から毒を持った甘い液体が一気に放出される。

次の瞬間、僕は薄くて重い枕を持って挑みかかっていた。

2歩進むあいだに枕を両手で振りかぶり、体重を預けて男の真上に振り下ろす。膝と甲で着地して少し擦りむいた。

 

 僕の立つ音で目を覚ました妻が、追いすがって「どうしたの、どうしたの?」と重ねて訊いてくる。(後から聞くと、ひどく転んだと思ったらしい)

 実は、枕を叩き付けたその瞬間、僕はそれが男ではなくテーブルに乗せられた大きなポットだと気付いていた。

 

 妻に、寝ぼけての悪漢退治だったことを説明して、笑い合ったあと布団に戻って考えた。

 これは一種の錯乱なのに、あっけなく妻が了解した不思議。ある意味剛胆だ。そして錯乱だけれど同時に冷静だったこと。

 

※ こちらが立ち上がったとき相手は動かず、そんな敵を攻撃して良いかためらった。

※ しかし深夜の無照明下、そこに居ることだけで犯罪だと確信し、攻撃が正当だと判断した。

※ 振りかぶりながら相手が意外に小さいと知り、勝てるという希望が生まれた。

※ ダイビングしたとき、河童のような奴だと思った。(丸い頂部とクチバシのようなもの)

・・・だんだん、自分の咄嗟の判断に疑義が生じていることがわかるけれど・・・

 

 しかしすべては一瞬だったのだ。ああみっともないと思いながら、それでも人知れず腰を抜かすよりはずっと良いとも思う。妻と僕の位置が逆だったらこんなことにはならなかったはずだし、何より直前に合戦の夢を見ていたことがいけなかったのだろう。

 あとは階下の客が驚いて行動を起こさないことを願うばかり。しばらく耳を澄ませて、心配なさそうだと思って寝た。

 

 あの、甘い毒を含んだ液体もしくは信号が、アドレナリンの作用というものだろうか。  

 それは、頭ではなく心臓から出て脳天で反射した。今でもあのシルエットを思い出せば、少しだけ反芻することができる。もしそれが正しければ、僕はボクサーの気持ちを垣間見たのかも知れない。

 

霧降高原                              20130803

 

 夏休み前半は北方面に行こうと妻と相談していた。那須に隈研吾という建築家が設計した安藤広重美術館があって、根津美術館で尾形光琳を見た楽しい記憶もあったからそこに決めた。

 隈さんは広重美術館の近くに石の美術館も設計しているので、両方を訪ねることができた。

 広重の浮世絵は艶があって、とても楽しく豊かな気分にしてくれる。

 

 一泊予定の翌る日は何も決めていなかった。

 霧降高原が涼しそうだとホテルを予約しておいたのだけれど、朝早くの陽射しで目を覚まされると、混じりけのない空気のためかふだん見ることのない鋭さで日が射し込んでいた。

 

 こんなに空気が澄んでいるのならスカイラインはどんなだろうかと車で上っていくと、霧降高原の名所にしようということか、とても長い階段が作られていた。1445段ということで、ビルに換算すると70~80階くらいの高さだ。汗をかきかき上がってみると、段々空模様が変わって、最後はせいぜい視界数十メートルの霧に包まれた。

 

 高山植物を保護するためか、鹿が入れない柵やゲートが完備されているのだけれど、終点の先ではそれもなくなる様子だった。ふらりと立ち寄った僕たちとは別の、登山者はここから先が本番なのだろう。それまでが良く整備された階段だったので、自然な風景が緊張感を呼び起こす。

 

 その境界から振り返ると、階段の最後のステージが濃い霧の中に浮かび上がって、階段を上りきった人々に休息の時間を与えていた。

 晴れ上がると関東平野が一望できてスカイツリーも見えるらしいけれど、真っ白な空気に包まれているのもとてもいい。

Yesterday                                                        20130729

 

 バブルの頃勤めていたディベロッパーでは、役員が大きな波に乗り損ねたと嘆いていたけれど、200人の社員旅行の行き先がオーストラリアだったのだから、やはりバブルそのものだったと言える。

 

 その、ゴールドコーストからメルボルンに南下する旅行で、何軒か出かけて行ったバーのひとつで僕はピアノを弾いた。

 

 広々とした店内にはゆとりを持ってテーブルが配置され、中央にグランドピアノが据えられていた。一定の時間になると、若い女性が何曲かのスタンダードを弾きに出てくる。それはBGMに徹した演奏で、視線を集めようとするものではなかったから、バーはとても落ち着いた空気に包まれていた。

 

 ピアノが空いているとき、3人で出かけた仲間のひとりが、「あのピアノは客が弾いても良いのか?」と給仕に尋ねた。

 給仕がよく通る声で「自由に弾いて楽しんでください」と言ったものだから、近くのいくつかのテーブルから拍手が起こってしまった。思わぬ盛り上がりに「俺は弾けないんだけど・・・」と友人が困っているとき、この楽しい雰囲気を壊すのが嫌だった僕がつい腰を浮かすと、拍手は更に大きくなった。

 

 右手でメロディーラインを、左手でギターのアルペジオを再現する僕の唯一の持ち曲イエスタディは、その奏法と技術の拙さが、却って周りの客の好感度を高めたらしい。思った以上に良い空気が生まれた。

 変なところで出た変な勇気。二度と無い楽しい思い出。

 

夏祭り                                                              20130728

 

 昨日は久しぶりにプールに出かけた。

 一時期レッスンDVDなども買って通っていたのだけれど、何となく熱が冷めてしばらく遠ざかっていた。

 ここのところ体重は少し減ったのに体積は増えてしまったようで、筋肉が脂肪に化けたという実感がプールに向かわせたのだ。

 

 泳ぐだけではあまり負荷がかからないので、6㎞先のプールまで歩くことにする。昨年同じようにして熱中症的なものを感じたことがあったから、保冷材をハンカチで首に巻いた。

 2時間泳いだあとの帰路、さすがに疲れたけれど歩くのはやはり好きで楽しいのだから、安上がりでいいなあと自分で思う。

 

 途中でペットショップに立ち寄って観賞魚を眺めた。プラチナ色の工芸品のような魚に驚き、アフリカの大きくて美しいかぶと虫も見た。

 

 夜は近くの公団住宅の夏祭りに出かけてみる。この地域、こんなに子供がいただろうかと驚きながら、おばあさんのフラダンスなどを眺めているうち、昼間の行軍もあって夏だなあと思った。

(追記)

 

 三宅さんの話を書いていて思い出した。

 先週金曜日、参院選直前の国会議事堂前がどのような雰囲気だろうかと思って迂回してみた。

 結構遠くの交差点から警察官が待機していて、歩道に柵を立てて「定期券をお見せください」と和やかに呼びかけている。と言っても、夜の霞が関を歩く人はとても少ないので、その和やかさは多勢に力を借りているのが明らかで、余裕がありすぎて勝ち誇っているようにも邪推できる。

 

 「定期は持っていませんが帰宅途中です」と答えると、しばらくの逡巡の後、柵を開いた。多分、明確な決まりごとはない嫌がらせのレベルなのだろう。

 

 デモ本体に辿りつくと、数百人が警棒に押し込まれて気勢を上げていた。

 

 正直な気持ちとしては、どちらにも混ざりたくない。ただ、まだ見ぬ孫の暮らしが心配だ。

三宅洋平さん                            20130723

 

 今回の参議院選挙では思いがけない収穫があった。34才のミュージシャン議員候補、三宅洋平さんを知ったことだ。

 いくつかのインターネットサイトで記事やコメントを読んで、選挙演説の動画に移動して魅了された。

 

 テレビや新聞ではほとんど取り上げられなかったけれど、一部のインターネットでは熱狂的な支持が表明されて小さくないブームになっていた。

 でも、接点がたまたまなければ知りようもない候補者だし、比例代表という複雑なシステムだったから個人得票では20位だったのに落選してしまった。残念。

 

 落選の直後の書き込みが、未来に向けて走り込みに出かけるというものだったから、こちらも3年後の準備をしよう。

 

 本当は三宅さんの政策をそんなに知らないのだから、簡単に支持表明をするのはおかしいかも知れないけれど、ファンになった理由は僕が「これだけがあれば・・・」と思うことを三宅さんが言っていたからだ。「融和」。「大人の目と耳」。

 

 最近、辛抱強く相手の話を聞くことが敬遠されているように思えてしかたない。三宅さんは、ただ、「話し合おう」、「友達を増やそう(中国や韓国に)」と言っている。

 

 3年後が本当に楽しみになってきた。多くの若者が反応しているし、これは一過性ではないように思うのだ。

スケッチブック                            20130718

 

 最近、絵も字も書く機会が減ってしまっていた。

 CADやメールばかりで、紙はただ印刷するものになっている。時折、誰かの前で線や文字を書く必要が生じた時、鉛筆やペンが手に馴染んでいないことを思い知らされていた。 

 

 今日、画材の世界堂に行って2㎜のスケッチ用シャープペンシル(4B)とボールペンを買ってきた。

 

 恩師由来のスケッチブックが、大事にするあまり手つかずだったのだけれど、手を動かす練習に使うことにした。右手の字は変な癖が抜けないと思ったので、左手で書いてみた。

奥多摩御嶽渓谷                          20130716

 

 海の日に、妻と奥多摩に出かけた。

 ここ数年恒例になってきた、小澤酒造近辺の散策だ。

 

 シッダールタを少し前に読んだところだったので、川の音がいつもより気になって耳を澄ましていると、本当に過去と現在と未来は一緒くたにあるのではないかと思えてきた。

 

 渓流沿いの散策路には、なぜか突然バナナの木があって、ここはルソーを思い出さない訳にいかない。

 空気が快適で冷たい水が楽しかった。

蒼い惑星                               20130714

 

 地球から63光年のところに、コバルトブルーの惑星が観察された・・・という記事を目にした。

http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2955451/11028575

 

 最初に映像を見た時、地球の気候変動か何かの映像だと思った。他の惑星とは考えずに。

 記事を読んでみると、中心にある恒星から近いので大気は1000度だというし、ケイ酸などガラス成分の雨が秒速2㎞で吹き荒れているとある。

 

 見上げる空にその姿は想像できないけれど、63光年の先に確かにあるのかと思うと、面白いと思う。光速の電話でも、150歳くらい頑張らないと返事が受けられないし、まあそもそもその惑星に生物は存在しないということだけれど。

昔の家電製品                            20130711

 

 今日も暑くて、暑すぎる夏の走りだった。

 日付が変わる今は、空調機もきいていて穏やかな夜更け。小さい音のスポーツニュースの背後に、その空調機の羽の音が聞こえている。

 

 この空調機は今では珍しい床置き型だ。およそ25年前、まだ30歳になっていなかった僕は、色々な資料を読み漁って空調機は床置きがよいと決めたのだった。

 

 結果的にはとても満足していて、と言っても他の部屋は壁付けなので一貫性は無いけれど、かつての日本製工業製品のタフネスを実感する。

 

 毎年、暑くなるたびにこの空調機は働くだろうか?と思いながら、応えてもらっている。まだもう少し頑張って・・・と静かに期待している。

男子                                  20130707

 

 珍しく晴天の七夕だ。

 昨日は、OB会のスケジュール調整のため、仲間と大学時代の恩師を訪ねた。その際、お土産のようにご自身が取材を受けた雑誌などをくださった。

 TOTOの建築・設計業界向け冊子である「TOTO通信」の、500回記念の表紙を飾るのは、教え子としても誇らしい限りだ。そしてもう一冊は後から自分で買ったものだけれど、「ああ、あれは面白いよ」と教えて下さった季刊誌「考える人---数学は美しいか」。

 先生は現在東大駒場キャンパスのすぐ近くに住まわれているので、キャンパス内のフレンチレストランが待ち合わせ場所になった。誰でも利用できるレストランで、木立に囲まれた環境はとても素晴らしい。

 打ち合わせと食事を終えて、キャンパス内の大木・老木などを眺めるそぞろ歩きの最中に出たのが「数学は美しいか」だった。

 

 今秋は奥様とヨーロッパに滞在されるそうだけれど、大病を3回もしたし、僻地は一人旅になるから早めに中央アジアとインドの計画を立てなければ・・・とおっしゃっていた。

 78歳の少年、あるいは男子は神々しいばかりにチャーミングだ。

読書                                   20130702                      

 昨日の帰り、キオスクでブルータスの表紙が目にとまった。

--鎌倉にひとり、ともだちを作ろう-- Comfort Life

 

 葉山に友達になった現場監督さんが居て、何度も屋外の食事会に呼んでくれたことを思い出した。みんな料理が上手だし、とても楽しい。

 最近は沖縄にかかり切りで留守がちなのが残念だけれど。

 その監督さんと、サーファーのお客様が住む家を作ったときは海の家で打合せをしたのだった。

 

 お客様を思い出してみると、逗子・葉山・七里ヶ浜・鎌倉・横須賀・秋谷・片瀬・鵠沼・平塚・・・と、結構海付いている。いつかコルビュジエの小屋の亜種を、どこかに建てられないかなあと思う。

 

 雑誌では移住した多くの人が紹介されていて、都心に通勤するひとりの女性が、電車で携帯を開かず本を読むようになったと言っていた。

 

 そうだそうだと思って、今朝は出がけに最近買っておいたヘッセの「シッダールタ」を鞄に入れた。超リフレッシュだ。これからは読書に戻そう。 

風Ⅱ                                  20130630

 ずっと風に吹かれていて、一年を通じて穏やかな日はそんなに多くないかも知れないと思い始めた。写真は、風にあおられたテーブルクロス。

 でも、今日も快適な気候の一日なのは間違いない。

風                                   20130630

 

 今日は妻と長女がさくらんぼ狩に行ったので、1日ずっと小さ

な屋上で過ごした。

 屋根のあるところと発想が変わるようで面白い。風が吹き続けたのでちょっとお腹が痛いけれど。

共有                                  20130624

 

 短編小説を読んでいたら、登場人物が「星の王子様」に触れたところがあって、それは羊の絵を王子様に描いてあげるシーンだった。

  一所懸命に描くのに王子様は気に入ってくれない。最後に小さな覗き窓のある箱の絵を描いて、「この中に羊がいるよ」と言うととても喜んだという場面だ。

 

 本を探したけれど見つからないので、あるいは見つかっても難しいだろうから、サン・テグジュペリが何を言おうとしたかは敬遠しておいて、これはとても面白いエピソードだと思う。

 僕の仕事は羊の絵と、箱の絵の中間を見せてあげる仕事だと思うからだ。

 

 完成すればそこを住まいとする人に、どのようにデザインを提供するか?

 

 力強い骨格と気持ちの良いシーツのような安心感。それだけが抽出できればとても良いのだけれど。(写真はスーパームーンの日の太陽:へそ曲がりのようだ)

梅雨の景色                                                        20130620

 

 今朝は日本vsイタリア戦の、バロテッリのPK成功を見てから家を出た。

 日本は追いつけただろうかと、駅でタブレットのスイッチを入れる。しかしいくら待っても反応は無く、やがて充電器側のコードが外れていたのだと気付いてがっかりした。安定機の重さに対してグリップ力の弱い端子なのだ。

 

 乗車して吊り皮につかまり、何を考えるともなしに風景を眺めていて、以前の電車の乗り方はこうだったなと思い出した。

 本を読むか音を聞くか、景色を眺めていた。

 

 アベノミクスや中国の思惑、デモやテロ、食品添加物の怖さなど、次から次へとタブレットの画面から情報を得ることができる。しかしそれは、サイダーの泡のように生まれては消える、はかないもののようでもある。

 

 一連の従軍慰安婦問題に関して、多くの感想や意見を読んだけれどすっきりしなかった。そんな時、藤原新也の短文で目が覚めた。

 「体験していない者が踏み込める場所はごく手前までだ。その点で橋下氏は何もわかっていない」

 藤原新也はその説明のために、義理の叔父に関する生々しい記憶を、恥を忍んでと言いながら書き出していた。まだ幼かった終戦直後、復員した叔父が当地で使用人を人間扱いしなかったという自慢話を、おぞましい気持ちと共に聞いていたのだ。

 

 

 窓の外の、重い空に押し込められた景色は、一方で緑の瑞々しさも湛えている。ふと、屈辱にうつむいた朝鮮半島の人の目に、景色はどう映っていただろうかと思った。

 情報は大切だけれど、発酵させなければ少しも意味が無いのだと、ぼんやりした頭で思う。

オフィスビル                             20130615

 

 年初に引っ越してきたオフィスビルは新しくて気持ちが良い。そればかりか美しくもあって感謝して出勤している。

 広く2階分を充てているエントランスホールには一切の広告が無くて、一軒だけ入っているレストランのアクアリウムがあるばかりだ。

 その涼しげな様子は、これからの季節ますますありがたみが増すだろう。

 

 先週の日曜日、近くのペットショップで小さな魚を一匹買い求める衝動に駆られて悩んだのだけれど、またそれをくり返しそうだなと思った。(魚は飼ったことがないのに)

若い日本人                              20130611

 

 一昨日の日曜日は何も予定が無かった。

 その割には普通に起きて、朝食の途中でテレビをつけるとサッカードイツリーグの日本人選手特集番組が再放送されていた。

 清武と乾の活躍が頼もしく心地よい。

 

 終了後、10分のBSニュースをなんとなく見ていたら、続いてセリエAの長友特集が始まった。これはまだあるかもと思っていたら、次の1時間はプレミアの香川と吉田だった。

 

 本田がまだだなあと思ったものの、ロシアリーグは映像が足りないのか既に放映されたのか、それはなかったのでテレビを消した。とは言え、朝から3時間も見てしまった。

 

 僕たち世代がちょっと想像できないような若い日本人選手の活躍は、とても気分がよくなる。でもそれはすこし夢見心地のところがあって、自分を引き比べる気になるはずもない。

 だから、啓発された訳ではないけれど、自分の草サッカーのころを思い出して不思議に思った。「もう少し何かできたかも知れないのに・・・」

 

 僕以外の多くが経験者だったからとか、元気な若手がたくさんいたからとか、正当な理由があるので間違っていたとは思わない。でも、もうちょっと欲を出した方が面白かったのでは・・・という思いが沈殿する。結構頑張ってもいたのだけれど、頑張るという発想がもういけなかったのではないかと。

 

 この引っ掛かり、小さな気付きと痛みを忘れないようにしよう。遊びでもなんでも、行為に加減や想定は無い方が楽しいに決まっている。決まっているのに忘れることが多いのだ。そしてもう、それが凡人だとは言うまい。僕の時間だから。

静かに                                20130609

 

 夜更けよりは夕方の方が好きなことに気付いた。友達に会うなら夜更けも良いけれど、ひとりで過ごすなら夕方の方が楽しい。

 

 カメラを脇にYOU TUBEで好きな曲を聴いている時間は何にもかえがたい。パラソルの心棒とワインボトルとグラスを覗いた写真を撮った。(丸シリーズ)

喧騒                                 20130608

 

 昨晩の金曜、オフィスを出てふと気まぐれに繁華街を歩いてみることにした。

 一日机に着いていたので、少しは運動らしきことをした方が良いと思ったのだ。

 

 神谷町から東京タワーとノアビルを眺め、ソ連(ロシア)大使館の警護を横目に外苑東通りから青山を目指す。

 途中、飯倉から六本木では、体力を持て余したようなたくさんの人達に遭遇した。相変わらず外国人が多くて自分の日常とは明らかに違った気配が面白いと思う。失礼な意味ではなくて共感はできないけれど。

 

 HONDAのビルまで出て、少し後戻りするお店を探してみようと思った。ゲバラの写真がたくさん飾られているというラム酒の店だ。自信が無かったけれど、直観的に路地を曲がったらその店の角に出た。

 

 やしの実の若芽の酢漬け・・・という不思議なおつまみが美味しかった。ラムも確かに美味しかったけれど、うーん、満足とはちょっと違うと思った。

 

 繁華街は他人ごとのようで、僕自身はもっと何か別の期待をしているのだと確認することになった。

博多ラーメン                             20130605

 

 写真は数週間前につつじがきれいに咲いた頃、渋谷の南口ロータリーの先で食べた博多ラーメンだ。

 六本木一丁目でつつじを見て、その記憶が鮮明なうちに人工着色の紅ショウガの色が溶け出す様子にほのぼのしたのだった。

 博多ラーメンがどのようなものか、九州に行ったことがないので知りようも無いけれど、ここ渋谷だけでなくてお茶の水やその他の街に似たような店構えのところが何軒かあって、それはチェーンではなさそうだからきっと定番のひとつなのだと思う。

 

 渋谷では焼鳥屋が並ぶ商店街の一角にあって、屋台のように解放された店には歩道に面してちゃちなテーブルも用意されている。少し時間が遅かったため、どこでも選べたから歩道に傾いた簡易テーブルでこれを食べたのだった。それで写真の中に空も写っている。

 

 初めて食べたころの何回か、「博多ラーメンは薄味なんだなあ」と思いながら食べていて、そのうち味を補強するスープの元がドレッシングのようにテーブルに置かれていることに気付いた。

 トッピングなど、客が好きにできるように味を完成させない主義と張り紙にあった。

 

 先鋭化したラーメン、『こだわりが命』 の店も楽しいのだろうけれど、フィニッシュを客に任せるこの店は楽し気だしホッとしたりする。

フィンランド                              20130601

 

 仕事の関係で写真を整理していたら、長女がフィンランド旅行したお土産の写真が出てきた。ムーミンだったので貼っておこう。

 本当はイッタラというメーカーの食器がきれいだったのだけれど、あんまりにもピンボケなので省略。

 最初のポストカードの船にはスニフが居るけれど、その小心ぶりは日本のアニメと変わるところが無さそうだ。スナフキンのカメラ目線はいかにも現代的で面白いと思う。

 

 そして、ストーリーはわからないものの、大魚と北極熊が絵に組み込まれるなど、作り手が楽しいんでいる様子が心地いい。

フィリピン海プレート                        20130530

 

 今日ネットの記事で読んだのは、神戸の有馬温泉が塩辛いのは太平洋の海水が含まれているからだ・・・というものだった。

 太平洋の海底から有馬温泉まで、数百万年を経たかも知れないとのこと。

 このあいだ、水の循環が4万年周期とメモした時、ある水は地中深く潜ってマグマに跳ね返されるとイメージしたのがほんとうだったと聞いたようで嬉しくなる。

 

 フィリピン海プレートは、その東北端で大きな島を日本にぶつけて伊豆半島にした張本人で、その結果丹沢山脈が生まれたと聞くと町田市民にとっては他人ごとでない。

 

 その時は北米プレートが相手だったらしいけれど、伊豆を起点にして日本列島太平洋岸に沿ってフィリピンに至る孤では、ユーラシアプレートの下に潜り込んでいるらしい。

 

 潜り込む際、海水を含んだ石も引きずられて30㎞の深度に到達する。そこでマグマに熱せられて超高温・高圧になった海水が逃げ場を求め、地層の隙間を探して(30㎞の)地上に到達した結果が有馬温泉ということだ。または、その他近畿の塩辛い温泉成分らしい。

 

 行楽とは言えあだやおろそかにしてはいけないと思いながら、掛け流しの温泉水が次にどこに行くかを考えるとエンドレスにはまりそうだとも思う。

カメラ・顕微鏡                            20130528

 最近のデジタルカメラは機能的にすごいので、ときどき顕微鏡の役目をしてくれる。長く愛用したジーンズの綻びは、よく見ると全体の限界を示しているようだった。

 ジーンズもTシャツも、肌に馴染んでからの蜜月が意外と短いのが残念だ。

潮溜まり                               20130525

 

 江ノ島の岩場に行って潮溜まりを覗き込んだ。すると自分と太陽が見えたのでシャッターを切る。モネとシャガールのような背景が出来上がって面白いと思った。

 でも、潮溜まりを観察すると、蟹や小魚、小さな貝の死骸の堆積があることに気付く。

 

 藤原新也が、アスファルト以外で足元を見たら無数の死がそこにある・・・と書いていたことを思い出した。

 

 世に何かを残したいという願望に疑問を差し挟むつもりはないけれど、これもこのまま普通だとすこし理解できた。

色                                   20130522

 なかなか名前を憶えられないオレンジだけれど、とても美味しいオレンジ。

 夕食後に手にとって爪を立てると、思いがけず強い抵抗にあった。負けじとむいたらエッシャーの絵で見たようならせん状の皮になる。

 それが面白くて写真に撮ろうとしたら、蛍光灯のためにきれいに写らなかった。では、と部屋の電気を消してみると、何枚かの写真のなかに好きになるものがあった。

 

 オレンジの皮となかみ。以前は皮となかみの間に空隙のあるみかんが美味しいと決めていたのに、少しも空隙が無くて実の詰まったオレンジがおいしいこの頃。

 色とか味って面白いなあと思う。

 

何食わぬ顔で                           20130521

月、撃たれる                            20130521

 

 5月17日、月の一点に約1秒間、4等星くらいの光が観測された。それは隕石が衝突した閃光だったらしい。

 観測機関によると、隕石は40㎏くらいの重さで衝突時の早さはおおよそ時速9万㎞。

 秒速にすると25㎞だ。

 

 弾丸が秒速数百メートル、長距離弾道ミサイルが数㎞らしいことを考えると、さすがに宇宙スケールだと思う。

 

 25㎞とは、僕の家がある町田の玉川学園前駅から渋谷駅、あるいは横浜駅から渋谷駅の距離だ。その距離を1秒で飛ぶ飛行体。オフィスのある神谷町から富士山に向かって撃てば4秒あまりで届くスピード。

 その弾道を想像する。寸分の狂いもなく直線だろう。

 

 地球にも同様に隕石は向かってくるけれど、大気圏で燃え尽きる。地球は真綿でくるまれたように保護されているのだ。

オリジナル                              20130516

 ディズニーは言うまでもない大変な人気を衰えさせることもなく、ずっと更新しているのだから驚きだ。僕個人は、好き嫌いということではなくて、接点があまりないのでただ感心して見ている。

 

 子供のころを思い出してみると、横山光輝(鉄人28号・魔法使いサリー)は好きだったのに手塚治虫(鉄腕アトム・リボンの騎士)はあまり好きではなかった。

 そして、ディズニーと手塚治虫、加えて宮崎駿があまり好きではないのを何故かと考えてみると、そのあまりの上手さや能力の高さから来る全能感が作品に投じられているからだと思う。

 

 イソップでもなんでもそうらしいけれど、題材を自分の世界に持ち込んでしまうから、何か統合されたイメージが強まってしまって想像が漂い出て行く隙間が塞がれてしまうように思うのだ。だいいち、みんな同じ顔をしている。

 

 松岡正剛の書評を読んで、初期のピーターパンを買ってみた。

 

 ムーミンの原作に触れたときのように、頭も目も洗われたような心地がして思いは何千㎞でも飛んでいく。やはりオリジナルは唯一無二だ。

 

かえるの合唱                                  20130511

 

 国道4号沿いの温泉ホテルは、カエルの大合唱に囲まれている。

 ここにいるのは、この1年通った山荘計画が無事に完成して、明日が撮影だからだ。

 

 最大功労者の工務店さんにお礼をしたくて、前日に出かけてきたら思いがけない環境に遭遇した。

 山荘に近い宿のなかで、温泉が良さそうなところを選んでチェックインした。

 地味ながら大きなマイナス点もなくてまあまあ、と思っていたら、風呂場にカエルの合唱が聞こえてきたのだ。

 

 国道沿いだから半信半疑で部屋に戻ったけれど、間違いはなかった。

 電気を消して窓を開け放ち、カエルの大群に耳を傾ける。なんだか必死な様子がいい。

ピクニック                              20130506

 

 昨日は打ち合わせが昼に終わり、車で帰宅する時あまりに天気が良いのでドライブしようかと思った。

 それでも、行楽地はきっと渋滞に決まっているから、一人でそのさなかに飛び込んで行く気にはなれない。しばらく目標を定めずに車を走らせてから、以前何度か出かけた小山田緑地に行ってみることにした。

 

 後部座席に置いてある模型を、広い芝生で眺めてみるのも面白いと思ったのだ。

 なるべく静かな所をと、知っている散策路から外れてみると、幼稚園の園庭くらいの広さの芝生スペースに出た。背後にある高い梢が適度に影を落とし、西側は遠くまで見通せる場所だ。しばし腰をおろして模型と対面する。そうしながら、その場所が大変快適なことから明日はお昼を持って出かけて来ようと決めた。

 妻と地元で人気のパン屋さんに寄り、コンビニエンスストアでは飲み物とオレンジを買って昨日と同じ場所に座る。シートは100円ショップで調達した。

 

 美味しいパンを食べて寝ころぶと、瞼を木漏れ日がくすぐり、風の音や小鳥のさえずりに包まれる。小さな花に注目すると、そのまわりにたくさんの虫が必死に動いていた。

 学生時代に体育のワンダーフォーゲルで感じたような空気が、自宅のすぐそばにあることを知った。

根津美術館                             20130501

 

 ゴールデンウィークの中日の平日、どこに出かけようかと悩んだ。沼津や箱根、江ノ島や青梅、それに三崎や高尾山や大山まで考えた後、結局は根津美術館に決めた。

 広がりを欲する気持ちが、物理的なものから気持ち的なものに変化したのだ。

 

 果たして、行ってみると根津美術館はとても楽しい体験だった。

 平日とは言え、ゴールデンウィークさなかとしては混雑はみられずに、庭園に咲くかきつばたと尾形光琳の屏風絵のシンクロは、美術館の意図そのままに僕たちに楽しみを与えてくれる。

 入館料千円で、隈研吾の建築も堪能できるのだから素晴らしいスポットだと思う。

 

 かきつばた屏風や、17世紀の日本画の印象も、近くメモしておきたいと思った。

ゴールデンウィーク                       20130428

 

 昨日の昼頃、現場の帰りに竜宮城のような片瀬江の島駅に着くと、駅前は休みを楽しむ人で賑わっていた。コンビニエンスストアでは、清涼飲料水とビールなどのコーナーに人だかりができている。

 

 改札を抜けると、ホームの片隅にある記念写真用の看板で、大学生らしい一団が丸い穴から順番に顔をのぞかせて写真を撮り合っていた。とてもきれいな服を着た若者たちで、楽しげな様子がこちらにまで伝染する。

 

 目の前で各駅停車が出発して、掲示板を見る。急行には20分の時間があった。上りの乗客は全然いないので、ガラガラのホームでベンチに座ることにした。

 

 保線用の平屋の建物の間には、庭のようなスペースがあって木が植えられている。太陽は高いものの逆光で、静かな風に揺れる葉が照り返しと影を明滅させていた。

 

 なるほど印象派という絵はこういう光を描いたのだな、と今更ながらに思う。

 

 僕のいる3番ホームから、次の各駅停車とその次の急行が発車する。だから、向かい側の2番ホームは当面降車ホームとなり、構内放送でも何度かその案内をしていた。

 その2番ホームの先頭付近で、ペーパーバックスを読みふけっている白人女性がいた。鮮やかな青色のシャツが海の休日にぴったりで、初夏のような日差しを存分に受け止めていた。

 日本語がわからないのだろうと思ったけれど、電車を待つ人はわずかだから、降車側から乗ったって何の問題もないだろう。

 

 ゴールデンウィークは、格別な天気で始まったなと思った。

マクドナルド                            20130421 

 

 昨日は早朝、三浦半島の家を撮影してくれる同僚カメラマンと逗子の駅で待ち合わせをして、車で早く着いたので駅前のマクドナルドに入った。

 ソーセージエッグマフィンのセットを頼んだつもりが、200円と言われたのでどうしてそんなに安いのだろうと思ったけれど、食べ始めてみたら卵は入っていなかった。それでも極端に安いと思う。

 

 以前、国立のマクドナルドでハンバーグ(パテ?)を挟み忘れたベーコンレタスバーガーを出されたことがあって、それよりはずっと美味しい。

 その時は、二口目に頼りない味に気付き、ベーコンとレタスはあるからこれで良いのかと不思議に思いながら、それでもそんなはずは無いと考え直したけれど、噛みついた後の断面をアルバイトの女の子に見せる気持ちにはなれず、ローカロリーのハンバーガーを完食したのだった。わりと珍しい体験ではないかと思う。

 

 今朝は新宿でお客様と待ち合わせて、やはり時間があったのでソーセージエッグマフィンをリベンジした。300円だった。

 3階のテーブルについてみると、両隣が外国人達で賑やかな英会話に挟まれながら、はす向かいに座る学生風の女性は完全に寝ていて、昨晩帰りそびれたのだとしたら何時間寝ているのだろうと思う。

 

 ハンバーガーとして美味しいチェーン店がたくさんあるようだけれど、マクドナルドは町の断片を見せるという点では、ダイレクトさがあって面白い。

ひぐらし風呂                                                         20130415

 

 先週末、栃木県の山荘に外構工事の完了検査に出かけた。

 山荘は新年早々に完成していて、そこに東屋(バーベキュースペース)や、桜見台、家庭菜園や花壇を繋げていったのだ。なにしろ900㎡の敷地だから、いろいろなことが出来る。

 桜見台は、一辺2.2メートルのサイコロ(柱梁と床のみ)状のもので、別荘分譲地のシンボルツリーでもある大きな山桜に正対している。傾斜する敷地のほぼ中央だから、桜以外も見渡せてとても居心地が良い。それに、座る場所によって地面からの高さが変わるのも楽しい。

 用途がわからないようなものだけれど、出来てみるとお客様は大変喜ばれて、僕もとても嬉しかった。 (早朝、そこでコーヒーを飲まれたとうかがう)

 

 少し話が飛ぶけれど、このサイトの別ページに 「居場所から始める設計」 という一文を掲載していて、最近ある方から、いい記事ですねという感想をいただいた。喜んで読み返してみたら、文章はもっと直さなければならないと思ったものの、内容は我ながら悪くないと思った。そしてこの山荘では、そこに書いたことがそのまま形になっている。

 その様子は、今度、プロに撮影してもらってこのページでも紹介しようと思う。だから今は、昨日足を延ばした絵本美術館の話。山荘の想いとも繋がる体験。

 

 

 それは、那珂川町 (山荘のあるさくら市に隣接する町)が町ぐるみで応援する、世界的にも有名な 「いわむらかずお」 さんの美術館だ。

 山荘を建ててくれた工務店の力作でもあるので、早くから気になっていて駆け足で見に来たこともあった。

 でもその時は建物ばかりを見ていたので、昨日やっと展示作品をじっくり見ることができたのだ。僕は絵本に詳しくないけれど、その絵の多くは記憶の中に見つけることができる。

 

 印刷して絵本になったものも素晴らしいけれど、たくさん展示されている原画が凄い。その一枚一枚が湛えている空気感が、こちらの感情を吸い寄せるのだ。遠い日に走り回った、草っ原や野山で吸った空気が蘇ってきて、多くの大人が忘れた充足感に満たされるように思う。

 

 作品の合間々々に作者自身が書かれた解説があって、次の一文を読んで一冊の絵本を買うことにした。

 

「夏場、ひぐらしの声につつまれて入るお風呂は最高です」

 

 この文を読み終わる前に、小学校3年生の夏休みを過ごした、山口県の祖父の家に気持ちが飛んでいった。夕陽を受けて少しオレンジがかった漆喰壁、揺れ舞う湯気、まな板の音、モザイクタイルの手触り、開け放たれた、気泡の入ったガラス窓、鳥の横切る空、こすれ合う枝葉、そして何万匹というひぐらし。・・・今年の夏、なんとしても、ひぐらしの声につつまれて風呂に入りたいと思う。

14ひきのこもりうた いわむらかずお 童心社
14ひきのこもりうた いわむらかずお 童心社

ピュアな雑味                                                        20130409

 

 ブルース スプリングスティーンの「アズベリーパークからの挨拶(Greetings From Asbury Park, N.J.)」を聴いていて考えたこと。

 

 僕がスプリングスティーンを知ったのは、翌日に物理Ⅰのテストを控えた高校1年の冬だった。あまりラジオを聴くことがなかったのに、たまたま付けてみると「明日無き暴走(Born to Run)」が始まって仰天したことをよく憶えている。翌日勇んでレコード店に行ってみたけれど、まだアルバムは発売されていなかった。

 

 しばらく後に見付けたのが、大ヒットする前に出されていた2枚のアルバムで、今日聴いたのが、その1枚のデビューアルバムの方だ。

 Born to Runまでの初めの3枚はそれぞれ違った印象で、スプリングスティーン本人は 「3枚目でようやく自分のスタイルで歌うことができた」 とやや恨みがましくインタビューに応えたりしていた。

 そんな記事を読みながらも、僕は3枚共とても好きだった。アズベリー・・・は田舎者丸出しという感じで、少しもカッコよくないところがかえって新鮮だったりしたのだ。

 

 

 今日、久し振りに聴き返してみてまた仰天したのは、出来映えがあまりにキッチュだからだ。スプリングスティーンがぼやいたのも当然だと思えてくる。

 なぜなら、音楽の才能では3桁違うであろうプロデューサーが勝手に振り付けをしているのだけれど、それはまるでアラン・ドロン(古い!)にちゃんちゃんこを着せるような仕業なのだ。

 僕の好きなスプリングスティーンの特徴 「ピュアな雑味」 が、雑味だけになっている。

 

 どうして若いときにはそのキッチュさが気にならなかったのだろうと、苦笑いの気持ちで聴き通してみて気付いた。

 何としてもスプリングスティーンを売り出したいと奮闘するプロデューサーは、手法こそ雑味ばかりだけれど、その必死さはピュアそのものだった。

距離                                 20130407

はなのように咲いてあなたのもとに駆けてゆく

 最近運転中によく聞く、パットメセニーの「シークレットストーリー」におさめられた10番目の曲は、単調な主題のくり返しだ。それなのに、飽きずに聞くのだからそこにはいろいろな仕掛けがあるのだろうと推測している。

 

 ある日気付いたひとつは、曲の中に挿入された日本語の一節だ。

 それは、小さめな音で聴いていると通り越してしまうのだけれど、少し大きめに聞けば明瞭に聴きとれる、上の二枚の写真のあいだに記した言葉だ。

 

 日本向けのアルバムでもないのに、こうして日本女性の声を挟むのは彼のファンに占める割合に日本人が多いからだろうか。

 それを別としても、普通に聞いていて、こんなに幸福感を醸し出すフレーズも少ないのではないかと思った。

 この言葉の魅力は男性女性を入れ替えても変わりが無いようでいて、それは男性の感想でしかなく、女性はまた違った聴き方をしているのだろうな、とも思う。

雨                                  20130403

 

 昨日はとても長くお付き合いのある方の、棟上げのお祝いだった。

 建て主のご家族のもとに、工務店の社長をはじめ、棟梁、大工、現場監督、インテリアスタッフ、そして僕がいた。

 

 前日の天気予報では荒れる心配もあって、建て主は延期も考えられた様子だけれど、雨はこぶりでなんの支障もなかった。

 

 お祝いの言葉に挟まれて、「雨降って、地固まる」と数回聞かれた。みなの思いやりが心地よいのと同時に、僕は静かな雨の上棟式がとてもきれいだと思った。

スープ                                20130331

 今日は美味しいスープを飲みたいと思って、パプリカで作った。料理本を見ながらなので、1時間かかったけれど、とても美味しくできた。

 玉葱と長ネギをバターでゆっくり炒めて、じゃがいもとパプリカを加えてさらに炒め、ブイヨンで30分煮込んでからミキサーにかける。裏ごしして塩コショウで整えようとしたら、何も足さなくても美味しいと思った。満足、満足。

お客さま                               20130331

 

 文字通り夜が白み始めたこの時間、ベッドから抜け出してメモを残そうとしているのは忘れてはならないことを思ったからだ。

 

 最近の雑感には、通奏低音としてひとつのプレゼンテーションの存在があって、昨日、その提案をさせていただいたお客様からポールポジションを与えられた。両手に余る参戦者があるのだから、この状態は大変ありがたく嬉しいものだ。ポールトゥーウィンを勝ち取るべく、一晩の休息をと思って(本当は年中休息しているのかも知れないけれど)ベッドに入ったのだった。

 

 今回はレースの状況が開示されていて、とても楽しくスリリングな思いをした。でも考えてみれば、出走者の数が不明であっても常に僕たちはレースをしているのだ。そして同時に、レースと思っているのはこちら側の勝手な思い込みで、お客様はレースなどどうでもよくてただ結果を求められているのだと再確認する。

 

 社会人になった時からの、お客様の顔がリアルに瞼に浮かんできた。レースの痕跡などどこにもない。

 

 日々の行動がお客さまの期待と一対・・・言わずもがなのことだけれど、胸に刻み直さなくてはと思った。そして、お客様は同じ時間を生きて勝利を目指すチームメイトという側面があるかも知れない。住宅が住み込まれて完成するものなら、メインプレーヤーはお客様で、僕はディフェンスし、ボールを押し上げて最高のスルーパスを供給したい。

本物                                 20130324

 

 今朝は、起きぬけにエクセルで作成していた資料を変に分割されたまま印刷して、お客様のお宅に向かった。昨晩用紙設定などして準備すれば良かったのだけれど、力尽きてしまったのだ。

 このお客様には、設計者:アクターとしての役割と、家を新築される事業のコンサルタントとしての役割が同時に求められている。

 とても魅力的な案件なので、設計を担当したい欲求は募るけれど、アドバイザーとして役立ちたいという欲求もあって両者がせめぎ合い、自分の立つ位置を定めるのが難しい。それでも、きれいすぎる言い方かもしれないけれど、お客様の最大幸福が目的だと自分を励ましてきた。

 

 打ち合わせを終えて帰宅して、なんとなく付けたテレビでビフォアアフターが始まって、昨秋一緒に上海に行った仲間が「匠(たくみ)」として紹介されているのを見る。

 ずいぶん前に超狭小地の建売物件を求められた高齢ご夫婦の家を、まさに劇的にリフォームする様子に拍手喝さいをした。定年を迎えられていたご主人の涙に、感じるところがたくさんあった。

 

 その後、長男から何年か前に名前を聞いていた「monkey magic」というグループのコンサート番組に移って、しばし見とれ聴き惚れる。

 

 僕は個人的に歌の一番はカレンカーペンターだと思っているのだけれど、モンキーマジックは彼女に肉薄していると思った。

 それはテクニックであると同時に、僕の感想では歌うという行為のありようが大切なのだ。きっとモンキーマジックは、聴衆がなくても存分に歌うのだろうと思う。それはつまり祈りだ。

 僕の今日の仕事も、その世界に少しだけ向くことができたのではないかと思うと、疲れが心地よく、明日の元気にもなると思った。本物になりたい。本物はすてきだ。

シーフードカレー                          20130318

 

 昨晩は久し振りにカレーを作ってみた。

 あれこれ考えて決めたのは、カジキとホタテのココナッツミルクカレーだ。

 

 いつもだったらレシピを見ながら作るのだけれど、昨日は過去のイメージを思い出しながら目見当でスパイスを加えていった。

 結果は自画自賛レベル。考えるまでも無いかも知れないけれど、少しのスパイスの量を感じる味覚を持っていないのだからそれでいいのだ。

 

 そんなことが妙な自信になったのか、代休の今日は五目あんかけ焼きそばを即興で作ってみることにした。妻や子供たちも戦線に加わったので、思いのほかスピーディーに仕上がり、アツアツでとても美味しかった。

 子供たちも巣立ちの季節が遠くはなく、だから楽しかった。

余命                                 20130313

 

 余命と言っても、ここに記すのは深刻な話ではない。

 

 伊集院静さんという作家はあちらこちらで見かける人で、とても含蓄のある言葉を吐いたり、どうしようもなくくだらないことを書き散らしたりする不思議な人だ。

 ずいぶん前に小説を読んだけれど、それは少しもピンとくるところがなくて内容をすっかり忘れてしまった。

 

 それでもエッセイでは印象深いものをいくつか読んで、揺るぎ無くお酒を愛するところには好感を持った。その調子で「アフリカの王」という長編小説を読んだら、面白かったけれどあまりに身内関係者への提灯が多くて辟易もした。

 女性に対しても男性に対しても超人的な気配りの人(気に入れば)、という評判は本当なのだろう。

 

 しばらく前、その伊集院静が雑誌のエッセイのようなところで、余命を告げられた読者の質問に答えて、「余命を知った人と知らない人のこれからの時間に、何か違いがあるのか?」と自問自答していた。僕はその通りだと気付かされたように思い、自然にそうした感想が出てくる氏は、やはり常人(たとえば僕自身)とはずいぶん違うのだと思った。

「マディソン郡の橋」                                                20130308

 

 映画「マディソン郡の橋」がヒットしたのは、まだ自分を中年だとは思っていない頃で、だから自分には関係のない年齢の暇つぶし的な映画だと思っていた。

 しかし先日、妻が応募した試写会「ある海辺の詩人-小さなヴェニスで-」を観てきたことで、「マディソン・・・」が蘇ってきた。と言うのは、試写会の映画も老年にさしかかった男の恋物語だからだ。

 

 「ヴェニスがこの上なく美しく撮られている」という惹句に出かけたのだけれど、ぎりぎりに到着したために最前列の席になってしまって、仰ぎ見る状態では画面の美しさがわからなかった。それでも、映像としてとても魅力的な映画なのだろうということは想像できた。

 

 映画では、老年にさしかかった「詩人」と呼ばれる漁師の、中国人女性への恋が描かれる。丁寧に撮られているとは思うのだけれど、時々転調するような展開に気持ちが離れてしまうのが残念だった。

 

 その数日後、新聞のテレビ欄に「マディソン郡の橋」を見付けて、試写会の記憶もあって観てみることにした。

 「陳腐」とか、「退屈」とか、「ハーレクィンロマンスのようだ」という当時見かけた批判は、きっと観る側のミスマッチだったのだと思う。とても魅力的な映画なのだ。(今更だけれど)

 クリント・イーストウッドとメリル・ストリープなのだから当たり前か・・・

 

 人間は元素や有機物でできているのと同時に、記憶や物語でもできている、というメッセージは、悲しみも大切な財産だと気付かせてくれるのかも知れない。

春一番                                20130304

 

 先週の金曜日、お客様を訪ねたあといくつかのアポイントを取る必要があって小ぶりな公園のベンチに座った。気温が高くて手に持っていたコートを傍らに置いたら、突風で1メートルほど飛ばされた。「春一番」という文字が、頭の中の図面のあいだに挿入されたのだった。

ハイジャンプ                            20130224

 

 超短期間で設計提案することになって、今日は頭がこった。

 超えるべきバーはとても高いのだけれど、楽しい。

 

 こういう場合は受注出来るかどうかではなくて、お客様が驚くかどうかだ。だからワクワクする。

 

 昨晩の敷地調査は、不審者通報がなくて良かった。

 

 スポーツで、身体を浮かべる時の高揚感が仕事にもあるのはありがたいことだと思う。

4万年の循環                            20130220

 

 今日は代替休暇のはずだったのだけれど、湘南の現場からの連絡でお客様に確認することができて、会いに出かけることになった。

 

 空と天気予報を見ながら、寒そうな電車を回避して車を選んだ。初めに車と思ったのだけれど、前回の大雪で大変な様子を見ていたから少しだけ逡巡したのだ。

 

 つもることが無かったのは良いとして、雪を警戒して車が減るという僕の期待は甘かったらしく、とても渋滞していた。

 

 停まった車でフロントガラスのみぞれを見て、空を見上げて写真を撮った。

 

 地球の水が循環するのには4万年がかかると以前読んだ。それは、おそらく海洋の水の量か、もう少し踏み込んで計測した水分量を降雨で割るような試算ではないかと思う。

 

 もちろん水の動きはもっと複雑に違いない訳で、そんなことを考えていたら、両親の故郷に近い鍾乳洞、「秋芳洞」を思い出した。

 その地の上に降った雨は地中に浸み込み、ゆっくり落ちながら鍾乳洞の天井からは再び水滴になる。それは、一旦闇に潜り込んだ水の劇的な展開だけれど、意志のない水に特別な意味はないだろう・・・とは思う。

 水はそれぞれ流れに身を任せて、地球の表皮を駆け巡ったり、地中深くに浸透してマグマに跳ね返されたりするのだろう。

 

 車のフロントガラスの写真を撮りながら、H2Oという分子に思いが至った。

 

 元素第一番の水素ふたつと、周回軌道にふたつ空席のあった酸素が手を結んだ極めてシンプルで美しい結合。

 

 H2Oが浸透し、素通りしているのを僕たちは毎日無意識に見送っている。

 そこでまた思う。さっきのH2Oが、再び生物を通過する可能性はどのくらいだろう。

ソンクル湖                              20130217

 

 今日テレビを見ていたら、キルギスの紀行番組があった。

 

 旧ソ連から独立したキルギスは、たとえばモンゴルのように国土が高地にあって、長く紹介された場所はくるぶしが隠れるかどうかという草に覆われた草原だ。

 つまり、喩えは悪いかも知れないけれど、冬のゴルフ場のような、枯れ草色のじゅうたんの向こうに、峰々が見えるようなところだ。

 

 ソンクル湖は、海抜3000mを超えている。そして、そのほとりに夏のあいだだけ放牧をしている家族が取材対象だ。

 

 世界各国から参加した10名あまりが、104日に渡るシルクロード踏破の過程で立ち寄るのだけれど、番組では日本人の若い女性がその家族のパオ(ゲル・・・大きなテント・・ほかの名称で呼ばれていた)に泊めてもらう。

 

 最初に訪ねたとき、日本人女性が自分の名前の由来を「花」だというと、パオのお父さんは自分は「星」を名付けられたと言った。チョルポンデック。

 

 琵琶湖の何倍もあるソンクル湖で飲み水を汲み(鍋のようなものですくう)、空と湖と草原の夕焼けに一日が終わり、空と湖と草原の朝に活動が始まる。

 

 チョルポンデックの見ている星を、僕も見たいと思った。

猫と月                                 20130214

 帰宅途中に目に入ってきた月はお皿のようだった。目を凝らさないでも、丸い月がわかるくらい明るい夜だった。

 僕は月に気を取られたり、月を忘れたりして暮らしていて、微妙な距離感だと思う。どうも月の位置や時間は気まぐれに思えて仕方ない。

 

 犬派と猫派というのは言葉としては変かも知れないけれど、そういう住み分けがあったように思う。

 あえて言えば犬が太陽で猫が月だろうか。

 

 僕はずっと犬が好きだったけれど猫も好きになった。いずれにしても、こちらに関係なく運動しているのに感情移入できるのは、生物としての繋がりがあるからに違いない。アポロの写真を見れば、ただの殺伐とした岩石なのにどうしたことかと思う。

 

 働きかけ、作用なのか。

自然体求道者                           20130210

 

 以前この雑感にも写真を記録した、親子3人で野外演劇を続けている高校時代の同級生がいる。仮設の舞台とテントを移動させ、毎週どこかで投げ銭を集めているのだ。

 大阪大学という旧帝国大学に通いながらも「国家」が大嫌いで、学生時代から演劇にのめり込んでいたらしい。

 

 その彼が、最近フェイスブックにベジタリアンになったことを書いていた。と言っても外食は例外だそうで、宗教的な態度ではなくて自身の世界観の変化のようだ。まだまだ芸能に理解の低い日本だそうだから、無駄な出費を抑制する気持ちもあるのかも知れない。

 

 そして、1週間ほど前のコメントに、沖縄の草地で食用になる野草を摘んで調理したとあった。テレビ・新聞を排除して雨風をテントに受けての暮らしだから、野草との距離は僕よりもずっと近いのだろう。

 

 その話を読んで、アトリエ事務所時代にすれ違った学生のことを思い出した。僕は会うことができなかったけれど、ヨーロッパの建築学科の学生が所長に面談を求めてきたのだ。所長が話してくれたところによると、当時実験的だった日本の現代住宅を見るためにひたすら歩いていたらしい。

 

 ほとんど無銭旅行で、ヒッチハイクとパンの耳が武器とのこと。サンドイッチを作っているらしい店を見つけては「残ったみみを分けて欲しい」と頼むと、必ず皆その通りにしてくれるから日本人は本当に優しい、と感激していた。

 不思議なほど安い牛乳と卵を買って、コップに簡易ミルクセーキを作り、そこにパンのみみを浸して食べれば1日100円もかからないと笑っていたそうだ。

 

 精神が若いのはなんて美しいのだろう、と思う。

 

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

かすかなるむぎぶえ

いちめんのなのはな

 

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

ひばりのおしゃべり

いちめんのなのはな

 

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

いちめんのなのはな

やめるはひるのつき

いちめんのなのはな。

 

 

友人のフェイスブックで久し振りに思い出した山村暮鳥の詩

風景  純銀もざいく

 

 

言葉・文字                              20130206

 

 初めてこの詩に触れたとき、「こういうのもあるんだ」と思い、その自由さにとても心地よさを憶えた。

 詩人と言えば、常人を超えた観察眼や思惟をもって言葉を紡ぎ出すのだろうと勝手に決めていたけれど、この「何かを見た」という体験のダイレクトな訴えは、実際のところ詩は僕の隣にあるのだと気付かせてくれた。

 

 先日、abさんごを買った。

 つまみ読みのできる作品ではないので、2頁ほど眺めて伏せてあるけれど、明日は栃木行になったから読んでみよう。

 

 言葉という人間の構成要素に、違った色彩があるのだと見せてくれるなんて、作家とか詩人という人たちはほんとうに面白いと思う。

Mr ローレンス                            20130201

 

 僕は建築学科に進んで迎えた3年のころ、友達の家に泊まらせてもらうことが少なくなかった。父兄に細かな話をしない友人がほとんどだから、些細な情報提供者として、泊まらせてもらう多少の価値があったのだ。そんな時、僕が買ったか友達が買ったか定かではないけれど、布団にもぐったまま建築誌を見て、アトリエ事務所に就職を試みることに決めた。

 

 それはほとんどひと目惚れのようなものだった。

 

 そのいきさつは急に上手く説明できないけれど、時間とエネルギーも使ってその事務所にもぐり込んだ。所員の一員になってしばらくすると、当時当たり前だったコーヒー当番とLP当番を割り当てられた。

 

 おおむね問題無くこなしていたと思っていた時、先輩所員から「もうやめて」と言われたアルバムが「戦場のメリークリスマス」だった。

 僕にとっては麻薬的な作用があったのか、どんなにくりかえしても楽しかったのだけれど、そうでない先輩には飽き飽きだったらしい。

 

 最近、大島渚監督が亡くなったとニュースを見た時、特段に思うところが無い映画ファンでしかないけれど、ああ、あの時のメリークリスマスなのだと思う。

 

 接点がほとんどないのに、僕に楔を打ち込んだ大島さんはどんな人だったのだろう。そして、ビートたけしさんやデビットボウィさん、もちろん坂本龍一さんなのだけれど、やはり大島監督さんだったのだと思ったりする。よく知らないけどありがとう、安らかに。

お墓                                 20130129

 

 年末に墓石の発注で慌てた。

 母も納骨を急ぎたくないようだったし、ゆっくり一周忌までに執り行うことができればと構えていた。年末に墓石の営業の方から電話があって、多くの墓石は中国で加工するので、日本の正月に中国の旧正月も加味しないと日程が組めないという。

 

 早く言ってくれとも思うけれど、僕がのんびりし過ぎていたのが原因だから責めるわけにも行かない。

 ぎりぎりで形を決めて発注を済ませた。重くのしかかる墓石は敬遠したいのだけれど、保守的な父だったので奇抜にするのもためらわれる。

 結局最上部の石だけ本の形にした。

 

 名前をどのように入れるか悩んで、たくさんのお墓を見て回った。その内に見付けたひとつが、とても好もしく感じられたので参考にさせていただく。

 それは、横書きで「◇◇家の墓」と書かれていた。「の」が「之」でないのはただひとつしか見なかった。

 

 先日届いた原稿を見ると、明朝体と言っていたのになんだかおどろおどろしい字体だ。変更のため、家族で字体を探しているうちに、形が本だし父は教員だったから、教科書体が良いだろうということになった。右綴じにしたので縦書きにする。

 長女が原寸でプリントアウトしたのを見ると、清々しい感じがした。父も喜んでくれるのではないかと思う。そして、父という本を読むように手を合わせることができれば、静かで良い感じだ。

もの作り                                20130124

 僕の設計した山荘に、お客様ご夫妻が滞在されるようになった。まだ外構工事を残しているので打ち合わせがあり、直接お目にかかって感想をうかがうチャンスがある。

 

 修正すべき点はあるけれど、新居を楽しんでいらっしゃることが感じられて嬉しい。

 それを喜びながらも、満足いただけるとすればそれは僕たちの努力だけではなくて、この事業の成立過程にあるのだと気付く。

 

 建て主・設計者・建設者、この3者が相手の声に最大の注意を払った時、気持ちの良い仕事が完成するという当たり前のことを再確認する。

 しかし、3者が同じように振る舞って幸福感にまで届くケースは、まだ多くはない。

 自分の力量に限界があることを忘れず、一緒に取り組める人の幸せを求めたいと思った。

 

 この山荘は、これからあずま屋や桜見台など、楽しいしかけが着工を待っている。

グッバイ 箱崎                            20130120

 延べ10年通った箱崎町に別れを告げた。

 初めに箱崎を訪れたのは、現在の日本IBM本社ビルの竣工目前、見学の機会に恵まれた時だった。当時勤めていたディベロッパーの社長と上司、先輩と出かけたのだけれど、下っ端の僕は写真係りなのに、フィルムが手元に無くて知らない箱崎の町を走りまわったのだった。

 その後別の縁で今の会社に入り、途中で青山オフィスのインテリアデザインなどさせてもらって入居し、7年ほど前に箱崎に舞い戻った。

 

 三多摩の猿である僕は、当初江戸文化の中心である隅田川に親しみが感じられなかった。八王子・立川・国立・国分寺・吉祥寺・新宿・下北沢、それと町田が普段の風景な僕には、江戸は遠かったし田舎くさいものだとさえ思っていたのだ。

 何故三多摩の猿かと言えば、僕の通った高校が猿を教育したと言われたりしているからだ。通学した立川高校は前身が東京府立二中で、一中から四中が日比谷・立川・両国・戸山とあるように、突然変異として三多摩の奥地に作られたことによる。当時そんなところに生徒は居るのか?と言った無見識な人がいて、「猿にでも教えるさ」と見栄を切った人がいたらしい。

 そうした三多摩の猿には、田園都市線の過剰な自意識と、またそれとは反対にいなせとか粋とか言っている江戸文化は、植草甚一やシュガーベイブ、それにピンククラウドなどとは相容れないコードだったのだ。

 

 ところがある時、隅田川テラスを歩き始めて状況が変わった。途中を端折れば、平らで遠くまで見通せる隅田川界隈の景色が自然に感じられるようになり、多摩丘陵の上り下りが未開の地に思われるようになったのだ。

 何という変化。

 

 でも、そうは言っても猿は猿だ。そこに江戸という新しい価値観が挿入されたことを素直に喜びたい。ありがとう箱崎、グッドバイ箱崎。

デザイン                               20130118

 

 事務所の移転のために片付けをしていたら、ずいぶん前の携帯電話が出てきた。握ってみると懐かしさがこみ上げてきて、そのうちにデザインという言葉に思いが至る。

 

 この携帯電話は引き延ばすことのできるアンテナが付いていて、きっとアンテナが装備されたほぼ最後の機種だったのだろう、飲食店などでテーブルに置くと友人達に珍しがられた。KDDIに勤めるサッカー仲間などは、他社のものとはいえこれほど長く使っている人がいるのは嬉しいことだ、などといつに無く真顔で言われたりもした。

 

 今のものに比べるとずんぐりしていてレトロそのものだけれど、片手の親指で開いてキーを打ち、閉じる・・・という一連の動作ではとてもフィット感があった。どんなに軽くなってもポケットに入れるには重いから、僕の場合は薄さよりは包みやすさを優先したいのだ。

 

 デザインという言葉は視覚情報として認識されがちだけれど、それはやはり正しくないと思う。道具であれば、使ったときの心持ちがデザインなのだ。

 考えてみると、美術も音楽も、「今」に骨格と奥行きを与えうるものが美しいと評されるのだから、目を喜ばせるのは入り口でしかなく、その先にあるのがデザインなのだと思う。 (それにしてもオンボロだ。妻が早く買い換えたらと言っていたのが今わかった。)

大雪と歯痛                              20130116

 

 土曜日の昼前、なぜか随分前に治療した歯が痛み出した。風邪をひいたときなど、その近辺に小さな違和感を憶えることがあったから、それかなと思うものの少しずつ痛みが増してくる。

 日曜日は顔をしかめていたらしく、妻に救急歯科を勧められたけれど、連休明けに以前通った近所の歯科に行くといって我慢していた。

 

 大雪となった成人の日の月曜日、ついに耐えられなくなって救急に予約をしてもらう。覚悟を決めて出てみると、大変な寒さに気が散ったし、道路のあちこちで車が立ち往生している様を見るのも驚きだったのでしばし痛さを忘れた。

 

 ガラガラの救急歯科では「大したこと無い」と言われ、炎症止めと鎮痛剤を数錠持ち帰らされた。そうかと安心したら、風邪気味での強行軍がたたったのか、夕方から明け方にかけて自分でも笑ってしまうくらい下あごが腫れ上がった。ちょっとマーロンブランドの気分になる。その後、歯科医で治療してもらってようやく落ち着いてきた。

 

 2013年の成人の日をよく記憶するのは、新成人と僕だ。(それと道路を塞いだドライバー)

400㎞                                20130109

 

 昨日、水戸の現場に完了検査準備に出かけた。往復で約400㎞あるので、出発間際にCDを選んだ。バラエティーを持たせたつもりだったけれど、運転しながら聴いてみるとほぼ同じ根っこのような気がしてきて、好みというものは一貫しているのかなあと思う。

 

 持っていったのは、ボブディラン・ビルエバンス・ブライアンブロンバーグ・パットメセニー。どれもずいぶん前のものなのは、長くCDを買っていないので仕方がない。

 

 リラックスできるものが良いと思って選んだので、のんびり聴いていたら、さすがにヒットしたアルバムだからか 「ああすごい」 と感心するばかりになっていた。

 ボブディランは、あの声が高速走行のタイヤ音に負けないので嬉しかったりする。

きれいな灯りだけ                          20130107

 

 遅い帰宅途中に空を見上げると、さすがに凍えるほどの寒気だけあって空気が澄んでいる。 新月なのか、空は暗くて星がいつにも増してたくさん見えた。

 

 これは100個くらいになるかと数えてみると、よく見えるのは天頂ばかりで少し高度を下げると激減してしまう。町の灯りが星を隠してしまうのだ。

 

 暮れに、美しい本だけ残して紙を捨て去ったらいいのでは、と考えたことを思い出して、灯りも何分の一何十分の一に絞ってしまえば星が増えるだろうと考えた。

 

 上海ではライトアップとネオンが街を賑々しくしていたけれど、少しも美しいとは思わなかった。エレクトリカルパレードも含めて、場所と時間を限定して人工光を存分に楽しんだら良いのかも知れない。

 

 美しい灯りと星だけの世界を想像すると、超ロマンチックだと思うのだ。

静かな日          20130101

 

 2012年に一区切りがついて、新しい年はまだ活動を始めていない元旦、ただ静かにぼーっとしている。

 

 昨日今日と、いただいたものや普段より奮発したお酒を飲んで少し酔っているけれど、ぼーっとしているのが気持ち良い。

 

 良く晴れていて、掃き出しの窓を開けても陽射しがあれば暖房は要らない。時折近くを通る車の音、遠くで啼く犬の声が聞こえ、軍用機もお休みなのか、高い空を飛ぶ旅客機の音が微かに聞こえる。

 

 何も心配せず反省もしない・・・目標も立てないし無用な観察もしない。

 

 ご挨拶を控えた正月だから尚更なのだとしても、こういう日はきっと一年に一度しかないだろう。

 皆で大掃除を頑張ったから、空気もきれいだ。