雑感

設計とは別に思ったこと

城崎2後お知らせ             20201125

 

 今月初旬訪ねた、四半世紀前の設計担当旅館の印象を記しました。

 別ページの「宿(休息する龍)」です。

 お手すきの時、開いてみてください。

樹々花々                20201120

 

 今週は町田の公園を2度訪ねた。

 ひとつは薬師池公園が拡張されたもので、もうひとつは自分の子供たちを遊ばせた馴染み深い公園。

 

 行政が、市民生活に潤いを与えようと頑張ってくれていることを感じる。

 あとは、市中にベンチを作って、ちょっとした休息の時間を持ちたいということ。

 いつの間にか、座りたいという欲求が芽生えていることに多少の焦りはあるけれど、それよりもなにより、高齢者が佇むところが望まれると思うのだ。

円山川(城崎2)            20201111

 

 大学時代の親友がある日、「あらみー、温泉旅館の設計できるか?」という電話をくれた。「やったことないけどできるよ!」と返事してプロジェクトがスタートした。

 最初はアドバイザーという役割だったけれど、いくつかの曲折もありながら主設計者になった。

 

 その親友isがプロデューサーで、僕の事務所共同主催者kaと、ヨットのインテリアデザインをしていたimの4名がスタッフ。

 皆で作り上げたものだけれど、基本計画は僕の担当だったので、コンセプトワークについては発言してよいかと思う。

 

 この旅館の設計ではオーナー夫人女将とケンカも交えながら、はらはらどきどきと進んだ。

 でも最初に、偶然に近いけれど温泉掘削の成功場面に立ち会うことができて、女将と一緒に万歳をしたから絆は確かだった。

 オープン後女将の奮闘を遠くに聞きながら、連絡が途切れがちになったとき、旅館を売却されたことが伝わってきた。

 オーナーご夫婦が高齢になっていたし、社長は病に倒れたそうだから、決断をされたのだろう。

 

 そのような経緯で、現オーナーは企業となっていて、だから余計な関与は慎むべきだという前提で、それでも触れたい。

 オーナーが代わって相当な改修があっただろうと予想したのに、まるで竣工時のように(少しは加齢していても)息づいていたことに驚き、とても嬉しかったのだ。

 

 まだ線の無い製図用紙に向かって、考えたのは二つ。

 円山川の中州のような立地条件をいかして、川と客室をくっつけること。

 広い川と背に抱く山々の気配から、物語を紡ぐこと。それは休息に降りてきた龍であるべきだった。

 

 いくらでも書きたくなるので、それは別コーナーに設けよう。スナップをご覧ください。

 平行定規で描いていたころ。青山一丁目、外苑東通りに頑張って事務所を借りていたころで若かった。その後住宅設計に傾いて、最近また複合施設に関わり始めた。楽しい、楽しみ。(^^)

城崎                  20201109

 

 僕は、25年ほど前に、兵庫県山陰の城崎で旅館の設計に携わる機会を得た。志賀直哉「城崎にて」の城崎だ。

 着手から竣工まで2年の時間に、たびたび城崎を訪ねた。

 

 旅館の開業後、妻は訪ねることを望んでいたけれど、幼い子供二人を伴うには城崎は遠い。新幹線で京都に行き、福知山線経由で単線の山陰線で行くには半日を要す。

 飛行機なら鳥取空港に降りてやはり山陰線に頼るのだけれど、ダイヤが連動していないのでこれも半日。

 そのようなわけで延び延びになっていたけれど、子供達も独立したし、そろそろだね、と言っていた。

 

 城崎に行って1泊で帰るのはあまりにもったいないので、2泊か3泊と思っていたら、Go to travel という制度が始まった。

 仕事上、3泊は負担があるので2泊と決め、目的の旅館以外にもうひとつと考えて、迷いなく「西村屋旅館」に決めた。

 

 設計も素晴らしいけれど、大工さんたちの技巧に感嘆するばかりだった。たぶん、もう一度同じ建物を建てることは不可能だろう。

 

 支障が無さそうなレベルで写真を付ける。

 ロビーも廊下も、風呂も客室も最高と思ったけれど、洗面室のスッとした空気感が忘れられない。幸せになる。

 広縁でずっと鯉を眺める時間が持てた。

 次の日は、同じく広縁から円山川を眺める一日。次回記したい。

石垣島2                20201107

 

 石垣島出張の飛行機は、往きも帰りも満席だった。そもそもチケット予約をした時、1週間後に迫って来たからと思って予約サイトを開くと、残りわずかと表示されて焦りまくったのだった。

 

 レンタカーは安かったから「プレミアムレンタカー」というところに予約していて、その会社の気風か石垣島の気風か、サイン以外は天気の話しかしないのが嬉しい。キズの点検もなし。

 ホテルで車種を聞かれたとき、「キーには色しか書いてないな、アクアブルー」と答えると、「トヨタアクアのブルーですね」と。

 アクアブルーが良かったな。笑

 

 那覇から移動してきた仲間2人と合流して、建設会社で打合せ。

まだ若い会社らしくて、澱んだところが無くて良い感じ。

 

 建設予定地はストリートビューでさんざん見ていたから、イメージは持っていたけれど、バルコニーの位置と水廻りの位置が重要で、(水廻りは、1階2階で同じ位置にあることが、無駄が少なく断然有利)あえて設備配管に不利な配置を選択していたから、その正しかったことが実感できて安心した。

 

 写真では草木しか映っていないけれど、周りには工夫を凝らしたカフェなどが何軒もある。

 

 この現場とは別に、沖縄県で作物被害の大きいウリミバエ撲滅センターの増築計画の打合せもした。これはまた今度ゆっくりと。

 往きの飛行機で見た雲の水平線は、とても静かで美しかった。

 合流した2人は身長188㎝と180㎝弱?なので、ダイエットという言葉が出ながらも、しっかり食べる。

 つられまいと念じていても、「カツ重」「海鮮盛り合わせとかきフライ」「ソーキラーメン」「餃子とから揚げ少しもらいます」などと。妻からは「いつも膨らんで帰って来る」と指摘される。

 

 帰りの飛行機はB787らしくて、羽田着陸の前にライティングショーがあった。苦境にあると言われるANAだけれど、接した係の人々はとても涼やかだった。すごい。

石垣島                 20201028

 

 明後日は石垣島で打合せだ。遠出は久しぶりで、楽しみ。

 打合せのタイムスケジュールから、羽田空港6:35便になったので、前泊が必要だ。それも久しぶり。

 

 この季節、石垣島はどんな様子だろう。天気予報では28°らしい。前回のレンタルカート店舗竣工では、オーナーに案内してもらってとても楽しい2時間を得た。

 その再現は難しそうだけれど、石垣の屈託のない人々との再会が楽しみ。

 この雑感に写真を掲載できるよう、心掛けよう。

大学受験                 20201020

 

 僕の通った都立高校はなかなか優秀な生徒の集まりで、中にはHi君のように野球部で地区大会まで真っ黒になってショートを守り、その後すんなり東大理一に行っちゃった強者もいた。

 

 いつも一緒に登戸駅で立ち食いうどんを食べていたYa(山本)君は、理系志望だったのに、お父さんと意地の張り合いがあったのか、夏頃文系に転向してそのまま慶応ボーイになって、僕を失望と羨望の部屋に置き去りにしてくれたりした。

 

 他の僕が一緒に過ごしていた仲間は、現役合格など夢見たこともなくて、受験予備校の試験に受かるかどうかを真剣に心配していた。

 そんな状況下で編み出したのが、落ちても体裁のある受験で、2次試験制度ではない京都大学がターゲットになった。

 4人で出かけた。

 4人とも落ちた。

 でもここが大事なところで、3人は翌年違う受験をしたのだけれど、一人Ha君は一年浪人後、京都大学建築学科に入学を果たした。おお、すごい。

 他の二人は、Mo君が家業を継いで地域の役職を歴任したり、Ma君は、早稲田経由・アメリカで修士を取得して、ケニアや東南アジアで行政官向けの講師を務めるなど、活躍してきた。

 ちょっと落ち込む。

 

 前段がとても長くなった。僕の大学受験だ。

 僕は、中学生時代に思いついた絵本作家になるというイメージを捨てきれずにいたから、大学受験では代ゼミの「美大コース」に通った。それは、建築学科に進みたいという気持ちとも矛盾がなかった。

 この雑感で記した記憶もあるけれど、そこで出会ったのは小学生と高校生のような実力差だった。転倒した発想としても、その時、僕の武器は数学かも知れない、と思った。それは美大から一般に移行することを意味する。(退却とは言いたくない 笑)

 

 さて、早稲田大学受験である。

 親からは何も意見が無かったけれど、浪人した以上志望した早稲田建築に行くか、それが無理なら公立大学と思っていた。

 だから、願書は早大と地方国立大の二つを整えた。

 

(まだまだ続きます、シャットダウンもしくは覚悟ください)

 

 1959年・1960年生まれは、浪人すると共通一次試験という新制度が導入される分岐点だった。

 国としても初めての試みで、多くの障害があったようだけれど、それは少なからず僕の順風になった。(以前記したか、また今度:主に社会科の問題難易度で、僕は砂漠でオアシスに出会った 笑)

 問題は化学。

 

 僕は化学が苦手で、というか天敵のようなもので、参考書すら持っていなかった。

 数学なら、それが中学高校レベルの数学としても、ピタゴラスの定理のように腑に落ちるところがある。しかし化学は、AとBを混ぜたらZになったと言われているようで、なぜ?が遠い。

 本来、科学はそうした無限とも思われる試行錯誤による、と今では多少感じることができるけれど、当時はその点に馴染めなかった。

 で、化学はオミット。それが大学受験まで続いてしまった。

 

 自己責任とはいえ、受験でひとつの教科を白紙提出するのはそれなりの勇気がいる。だからよく覚えている。

 

 家に帰ってしばらく考えた。次にどうするかと。

 二つしか願書を出していないのだから、私大で敗退したのなら国公立に全力を傾けるべきでは・・・

 

 早大建築学科受験には、「デッサン」という科目がある。

 もう、化学の白紙提出で落ちたのは違いないから、デッサンなど行かずに国公立の受験に照準を合わせるべきだと考え始めていた。

 

 でも、国公立試験の範囲は膨大なのに、デッサンは射程距離にある。「終わらせよう」と思った。

 家を出た。試験会場に着くと、人はまばらで、僕よりも会場担当の方が走ってくれた。遅刻にも資格剥奪の制限があったのだ。

 試験教室に入ると、20人ほどが塑像を囲んで描いているようだけれど、どう見ても僕の方がうまい。

 なにしろこちらは芸大受験者たちにさらされてきたのだから。

 

 僕は、落ちることを前提にして、デッサンの時間を楽しんだ。これで帰ろうと思った。

 

 後日、本城君(Ho)が万歳してくれたように、合格していた。

 これも以前記した記憶があるけれど、化学の採点が18点で、デッサンの配点も18点で、難しい評価を避けるためにデッサンは0点か18点だったのだ。

 

 捨て身の気迫、あるいは開き直りの図々しさ。よしよし。」

中三自慢話                 20201019

 

 中学時代の写真を見ていてあらためて生々しく思い出した「快感話」。妻には何度も話したらしくて飽きられているのでここに記述。

 

 中学3年の4月の放課後、校庭を走り回って汗だらだらで鞄を取りに教室に戻ったとき、涼しい顔をした秀才たちが7~8人たむろしていた。

 普段会話もしないので、話に交ざろうとは思わなかったけれど、一言も声を出さずに立ち去るのもどうかと、「何かあったのか」と質問してみた。

 すると、その中にいた同じ小学校出身の友達が、

「いやあ、この間の実力テストの番付なんだけど、10番までほぼわかっているのに、どうしても3番が見つからないんだ。誰だと思う?」みなが、たいした話じゃないけど気になって、などと言う。

 

僕である。

 自分だけが知っている、という快感。

「そりゃわかんねーな」と答えて教室を出た。

 

 当時、僕の友人選びは「イイ奴」が基本で、相手の承認も必要だから選別した訳ではないけれど、運動が得意で楽しそうな奴ばかりで、僕と同じように教室の机に教科書を詰め込んだまま、というようなふうだった。

 ところが、中2の3学期、何の本の刺激だったか授業はきちんと聞こう、とやる気スイッチが入ったのだった。

 だから、教科書ベースの問題であれば解答できたのだろう。

 

 10日ほどの夏期講習に、親の無言の圧力で行ったときは、窓の外ばかり見ていたから、最後の試験で1000人余りの中で900番台だった。親は何も言わず、ただがっかりしていたようだ。

 

 都立高校は地域で難関と呼ばれるところを志望して、いわゆる内申点(通信簿)がその高校対象では番外だったので、担任の馬場先生からは当日試験で「満点を取りなさい」と言われた。

 そして、「早稲田高等学院も受けておけば?」と聞かされたとき、この先生の勇気づけはすごい!と感心しながら光が差した思いだった。本人は受かると思っていないのに。

 結果的に、都立高校は300余名の定員で不合格は数人だったとも聞いたので、願書を出す時点で相当に厳しい選別があったのだ。それを無視した馬場先生(当時40代の女性教師)の勝利かも知れない。笑

 

 受験って真剣になるから記憶が鮮明だ。次回は大学受験を記したい。

若いって                  20201018

 

 同居する母が、「片づけをしていたら古い写真が出てきたので渡しておくわね」と言って、数回にわたって僕の若い時の記念写真を手渡してくれた。

 それぞれ確かな記憶になかったので、感慨深いものがある。

 

 他人事のように率直に言わせてもらうと、「自分にも幼い時、若い時があったんだ」ということがあって、「若いっていいなあ」という気持ち。

 

 世の多くの祖父母が、孫を無条件に愛するのは自分の孫という事実と同時に、若い生命を身近に感じることに喜びがあるからだと気付かされる。

 そういえば、孫が生まれてからだけれど、保育園児が手を繋いで集団で歩いていたりすると、立ち止まらない訳にはいかない。

 

 還暦は、人生の折り返し点というにはかなり後ろよりなので、やり直し点と言ったらよいだろうか。

 やり直しとしても、らせんを一回りして60年の高さに来ているのだから、スタート地点とはまるで違う。

 ただ、新しい、と考えても無理がないのではないか。そうであるなら期待感も生まれてくる。

 

 写真を見ているうちに、若い時もあったんだよと、他の人に見せたくなった。還暦で羞恥心が薄れたか。それも新しい世界。

会う人の多くに、フランキー堺に似ていると言われていたらしい。

ピアノは2年だけだったので、その後ぜんぜん弾けないのが残念と言っても、残念がる根拠がない。笑

若い女の先生が、アメリカ人と結婚して居なくなってしまって、僕は大喜び。解放記念日。

高校受験の願書写真のはず、と二十歳のころの写真。我ながら初々しいではないか。笑 思い出させてくれた母に感謝。

かいがら公園                 20201012

 

 今なら神奈川中央交通バスが10分で到着する「団地南口」は、当時どのくらいの時間距離だっただろう。

 もう記憶が薄れているけれど、バス道路はまだ舗装されていなかったから、バスは右に左にかしげながら、運航していたのだと思う。。

 そこに、忽然と(それなりの建設時間を要したとしても)現れた公団住宅は、とても新しい世界だった。

 自転車にまたがって、何度その周回道路を走ったか。

 

 この、公団住宅のほぼ中心にあった児童公園は、かいがら公園と呼ばれた。50年以上前のはなし。

 

 これをつくったひとたちは、現在の日本からするとイカレテいるようにも思う。なぜこのようなものができたのか。

 きっと、同じ姿が町田以外にもあるだろうから、それも見てみたい。図面があったかどうか別として、設計者に会ってみたい。

もう80歳超えか・・。 

  すりすりと、とんがった先端まで行くのが男子の通過儀礼だった。

愛だろ、愛 2               20201011

 

 跳んで、落ちて、はしゃいで、眠って、愚痴を言って、悪態もついて、おだてられて、悪口を言われて、美味しかったりがっかりして、希望を持とうとして、ふさぎこんで、なぜと思って、そうだと得心して、羨んで、みじめに思って、胸をはって、しゃがみ込む。

 

 近々、目の前にあるパソコンを新しいものに替えようとしていて、別にパソコンに意識があるとは思わないけれど、5年かそれ以上正対してきたことを思い出して少し振り返ってみた。

 

 さきほど、NHKBSのエチオピアの自然を主題にした番組の始めだけを見た。

 ゲラダヒヒというエチオピア高原にだけいる猿が紹介されていて、草食なのにケンカ好きな種だとのことだった。

 

 ゲラダヒヒに憧れた。洒落者。

 設計事務所には締め切りという切迫した状況は発生しないけれど、納期、というルールは無視できない。

 仲間の配慮もあって、こんなことを記すちょっとした時間が得られた。

 好きなことを楽しく頑張りたい。

写真は次から借用。https://sarucom.com/gelada/

konosaruha kyoumogenkini kusawomusitte kuratteiruka?

寒くなりました              20201010

 

 例えば、タオルケット1枚から羽毛布団に替えるのはいつ頃なのかと思っても、例年どのようにしていたかあいまいだ。実際は、妻任せなので、判断していないのだけれど。

 蚊取り線香を最後に焚いた日から、何日になったか。今日は上着をはおっている。

 日本の秋は短いなあ。子供のころからの実感。(^^)

 

 昨日は、少しづつ発展している園芸店舗を訪ねた。

 オーナーは、隠れ家的店舗にしたいのでひっそり営業していると話す。

 建築途上にあるカフェが、どのように開店を迎えるのか。とても楽しみ。

 立地は、東海道線辻堂駅と茅ヶ崎駅のあいだで、辻堂が近い。「六図」という少し変わった名称の神奈中バス停真ん前。

 

 大きな期待に応えられる規模ではなさそうだけれど、樹木との回路が見つかるかも知れないお店。遠くからは難しいとしても、近くまで寄ったならぜひ。

澄む、清む                20201001

 

 月曜日に出かけた横浜は、その前に町田から横浜線に乗った景色は、コロナを忘れるくらいさわやかなものだった。

 梅雨の、モンスーンのような重たい空気、8月のアスファルトから跳ね返る熱気。そして今、昼間でも星が見えるかのような高い空。

 他の国をよくは知らないけれど、ここで生まれてよかったなあと。

 ちょっと冬の寒さが心配としても。

ペリー来航前              20200925

 

 連日になるけれど、「カズサビーチ」の読後感が薄まる前に。

 カズサビーチというタイトルの物語は、解説によれば史実をつぶさに調べ上げて歴史検証を尊重しているとのことだ。

 それでも、先日記したように少年少女文学のようにおおらかで風通しの良い小説になっている。

 

 下手な解説は避けたいけれど、概要だけ。

 

 肝要なのは、ペリーという黒船が現れる前の鎖国日本が描かれているということ。

 TV番組でにぎわうように、黒船来航から明治維新に至るまでは大変ドラマチックだ。誰しもそこに目を奪われるけれど、その直前、江戸文化とはまた違った日本はどのようだったのか。

 

 物語は、捕鯨の為に日本海を目指したアメリカ東海岸の船が、嵐で遭難した各藩御用達荷積帆船の乗組員を救助したことに始まる。

 

 読んでいて楽しいひとつは、「船乗りたるものいかなる時も遭難者を救助すべき」という、政治絡みのお仕着せ規範を超えた価値観が、奔放な国アメリカと鎖国だった日本で共有されたこと。

 

 そして同じかそれ以上に魅力的なのが、まだ自走動力(エンジン)が船におよばずに、風頼みだった帆船の、地球に対するスケール感。

 ニューヨークに近い東海岸から、鯨資源が豊かと聞いて日本海を目指すのに、南米南端ホーン岬を迂回して、ホノルル経由で太平洋横断を当たり前とするのだ。

 

 それだけでも驚くのに、日本から見れば絶海の孤島、鳥島で日本人船員を救助して浦賀沖まで航行し、接岸許可を待つ間に、ふとした風で仙台や小笠原まで流されて行き来するのだ。まともな日本地図や海図がないままに。

 

 船員たちはキャプテンを頼りながら、どのような気持ちで朝を迎えて夕日を眺めたのか。何か月・年という単位で。

 仕事とはなんなのか。欲望とはどのようなものか。信頼って。

 

 少年少女文学が嫌いでなければ、あるいはそれは僕の自己基準の恐れが大きいので、このような物語に少しでも興味を持たれたらおすすめです。(^^)

少年少女文学              20200924

 

 一昨日の真夜中、眠りが浅くなったときに雨の音に気付いて「台風12号は近づくだろうか」などと考えていた。

 寝室は屋上コンクリート床の直下なので、大きくはならないけれど、真上からも雨音が聞こえてくる。

 

 そのせいか、寝ている僕に雨が落ちてきているように感じていた。それがだんだん膨らんで、意識が屋根を抜けて暗闇の中を絶え間なく降る雨粒の集合を見ているような気がしてきて、やがてその意識はぐんぐん上がって行って、ついには流れ込む大気から雨が生まれるようすにまで及んだ。

 

 寝ぼけた頭でその風景に感心して、同時に自分には何かインスピレーションがあるのではと自惚れようとしたとき、それはどこからか借りてきたイメージだと思い当たった。

 

芥川龍之介「蜘蛛の糸」。そうだ、最近寝る前に新潮文庫の「蜘蛛の糸・杜子春」を音読していたのだった。

 この、十短編を収録した文庫の背表紙には、少年少女文学を集めた・・・と解説がある。ここで何となく感じていた自分の好みがはっきりした形になった。

 僕は、少年少女文学が好きなのだ。大声で言って良いか別として。

 

 無人島に持って行く一冊としたら、「人間の運命」で決まりだけれど、これも読みようによっては少年少女文学だ。

 ときどき枕元に置く物語といえば、

 イリュージョン

 トリツカレ男

 旅のラゴス 

 アルケミスト

 リトルターン

 海を見ていたジョニー

 パレオマニア

 ビリーザキッド

 キリマンジャロの雪

 氷壁

 夜間飛行

 片岡義男・・・そうか、片岡義男は少年少女文学だったか。

 

 そしてこの3日間は「カズサビーチ」山本一力著

次回はこの本の感想にしよう。 

ほぼ十年                20200918

 

 先日、新たに記した雑感のタイトルを更新に加えようとしたとき、アイテム数超過の表示があった。

 恐る恐るページを作り直した結果がここです。

 

 初めのころ、操作を間違えて2年弱の記録を失った時、多少の喪失感があった。今回は、それが10年と思いながら、それでも保存をずっと続けられるとも考えていないので、「まあ、なるようになるか」と比較的冷静に対処していたような気がする。

 

 以前にも記したように、この雑感を開いてくださる方が何人いらっしゃるか把握していない。そうした統計的な数字は、ホームページの設定次第でわかるはずだけれど、正直な気持ち知りたいわけではない。・・・実際、そのことに興味がない。

 

 早めのころ、高校の同級生がクラス会で、他の友人と一緒にこのページを紹介してくれたことがあった。

 その後、「ときどき見ますよ」と声をかけてもらったこともあって、とても嬉しかった。

 職場でも、何かの拍子に遭遇したのか、見てくれる同僚があった。

 

 こうして、机の引き出しにしまえるものでもないところに、何かを記すのは読んで欲しい欲求があるからに違いない。

 でも、多くの人に、と思っていないこともその通りだ。

 

 一昨年他界した義母が、「ときどき開いて楽しく読んでいるよ」と妻を通じて聞いたときは、ただ良い気分だった。

 

 次の10年、思い出したら開いてみてください。飲みにもいきたいですね。